中東:トルコの近代化

イスラム国の中でトルコが他の国に比べてイスラム色がないのはなぜかと今まで気になっていたのですが大して調べもせずに来ていました。でもカスピアンレポートで素晴らしく明快で簡潔な説明がありました。
History of the Turkish military’s role in politics
https://www.youtube.com/watch?v=Bb0Yfj7VjjU
オスマントルコ帝国は長い間広大な地域を占領して来ていました。しかし18世紀頃からだんだんとヨーロッパに負けることが多くなってきたのです。そこで18世紀の後半に当時のトルコ皇帝は自分軍隊を西欧化することにしました。1773年に西欧式の海軍(しばらくして陸軍)の学校を作りました。当時の先生達は皆西欧人でした。学校で教えていたのは宗教色を排除した科学的な西欧流の学問でした。これらの軍隊の学校の教育のおかげで当時のオスマントルコのエリート軍人は西欧的な教育を受けました。ところがこれに反対し、不平勢力になったのは伝統的のある皇帝の近衛兵軍団「ジェニサリー」でした。皇帝の近衛兵は伝統的にオスマン帝国のエリート軍団でしたから当然新興軍隊が勢力を持つのは嫌がるわけです。そこでオスマントルコの皇帝はジェニサリーを廃止し、西欧的で近代的な歩兵部隊に変えようとしました。しかしジェニサリーの人達は不満を爆発させ反乱を起こしました。その結果1826年にはジェニサリーは反乱で負け廃止されました。1826には政治組織、軍隊、経済的は改革をします。6:26ではスルタン自身の服装も西欧式のものに変えてしまっています。これをタンジマットTANJIMAT(オスマントルコの改革)といいます。(まるで明治維新のようです。スルタンが主導で文化改革を行ったようですが欧米式軍隊に変えるのが明治維新でジェニサリーの反乱はまるで西南の役のようです。)その後スルタンの子と孫が続いて改革を進めましたが、しかしスルタンの文化生活様式は古いイスラムのままの状態が続きました。その結果軍隊だけが西欧式でその他の生活様式は古いままという隔離が起きてしまいました。若い世代のトルコ人たちはできるだけトルコの伝統を破壊せずに近代化をしたかったのですが、第一次世界大戦でオスマントルコ帝国は崩壊してしまいました。オスマントルコ帝国が崩壊した後、主導してトルコの独立を勝ち取ったのが西欧的教育を受けたトルコ軍のエリート達でした。西欧的教育を受けた彼らが目指したのは当然のごとく西欧的なトルコ政府を成立させることです。そして軍隊が主導して宗教色の無い西欧的な政府を主導したのです。

トルコの軍隊は長い間熱烈な国民の支持がありました。2002年の調査ではトルコ軍の支持率が79%もあります。ちなみに首相の支持率7%、政府の支持率7%、宗教の指導者の支持率は32%程度です。

しかし2004年を過ぎてアメリカのイラク介入に対してトルコ軍はただ成り行きを見守るだけで何もせず、首相が政治的な決断をするのに従ってしまった。このことで政治的なリーダーシップを全く失ってまった。

Not to use power is to lose power” とは意味深な言葉ですね。

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この動画の中で何度も「secular」と言っていますが、世俗的、宗教色の無い、という意味です。この言葉はクルド人の政府と軍隊についての報道でも何度も出てきます。イスラム教の国は宗教と政治が一体化していますのでトルコ人とクルド人は宗教色が薄いのが特徴です。

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