米先住民01:チェロキーの悲劇01 の続きです。
目次
生活環境の変化
こちらが1830年に東部地域の先住民がオクラホマに強制移住させられた時の先住民居住区です。かなりの広さがありますね。
この移住は先住民の生活文化形態に大きな影響を及ぼしました。今までは居住していた各所で取れる動物や植物が食事や衣服や文化に大きな影響を与えていたのです。しかし今回は全く違った環境で食べ物も違ってきます。過去の生活形態との大きな断絶ができました。
しかもこの地域に住んでいた先住民とも確執があったようです。強制移住させられてきた先住民は仕方なくこちらに住むようになったのですが、この地域にも先住民がいたのです。
チェロキー居住地さらなる解体
上記の地域に移住させられてきたのが1830年代です。しかしそれからさらに60年後にさらにアメリカ政府がオクラホマの先住民の居住地をはく奪してゆきます。
今度したことは当時の部族ごとに与えられていた先住民居住地を個人ごとに分割することにしたのです。しかも白人達から5ドルの賄賂を取り白人達を先住民としてアメリカ政府の先住民登録に記載しました。(Dawes Roll 1906) 先住民登録に記載されることで白人達は先住民達が分配してもらう予定であった土地をちゃっかり横取りしてしまったのです。
インディアンの土地の広告
Dawes Rolls: History of $5 Dollar Indians
Paying to Play Indian: The Dawes Rolls and the Legacy of $5 Indians
チェロキーの黒人子孫
しかも正式には先住民と一緒についてきた黒人奴隷にも分け与えられるはずだった土地も横取りしてしまいました。黒人達や黒人との混血は住民登録に Freedman から Colored と分類され最後には Black とされてしまいました。チェロキーの混血でも黒人と混血していた場合は除外されてしまったのです。
しかも全く血のつながりのない白人は政府の公式書類に登録されることで先住民が受け取る保証を受ける権利を得たのです。このやり方に黒人の人達は今でも怨念を持っています。
チェロキーの部族の習慣
チェロキーを名乗る人達がなぜこのように多くなったかというもう一つの理由に異人種間の結婚を気軽にしたこと。結婚してできた子供たちはチェロキーの子供たち。奴隷の人達もチェロキーの一員。結婚相手もチェロキーの一員。結婚相手の家族もチェロキーの一員。養子も孤児も自分達が育てるとチェロキーの一員という寛大過ぎる考え方がありました。
従ってチェロキーと一緒に生活して来たチェロキーの黒人奴隷達は(混血でもない限り遺伝上では実際は黒人には違いないのですが)自分達がチェロキー部族の一員だと思っていたのです。
昔のチェロキーの人達
こちらが昔のチェロキーの人達の写真です。
無骨なアジア系の人達に見えます。
現在のチェロキーの人達
現在のチェロキーの一番大きな団体チェロキーネイションのチーフはこの男性。彼は32分の一(3.1%)チェロキーだそうです。多分Dawes Roll 1906 に登録された祖先から数えてだと思います。そのDawes Roll 1906 に登録された祖先が本物のチェロキーだったかどうかは分かりません。
こちらがチェロキーネイションの若者たちです。
昔のチェロキーの人達が現在のチェロキーの人達を見たら昔の自分や家族や親せきや近所の人達と似た人は全くいないことにがっかりしてしまうでしょう。しかもチェロキーと名乗っているのは自分達を迫害して苦しめた”白人にそっくり”です。チェロキーの祖先たちの魂はもう子孫を待つ価値も無いとあの世で気力を失って消滅してしまいそうです。
チェロキーの歴史から学ぶこと
アメリカ先住民全般に言えることですが不幸な歴史があります。しかし特にチェロキーについていえば異人種を気軽に自分の一族として迎え入れたことでチェロキーのアイデンティ自体が消滅してしまいました。これから学べることは長い目で見た将来に自分の民族のアイデンティティを消失したくなければ気軽に混血をしない方がよろしいかと思います。
続く: